究め道

色々感じた事を書くブログです

罪と罰を考える

スシローでの迷惑行為を端に発するSNSの迷惑動画で

遂に先日逮捕者が出ましたね。

単純に気分が良いものではないですし、

世間的にこれだけ騒がれている事例でもあるので

漸く警察が腰を上げた、というところでしょうか。

過去にも似た事例があったでしょうが、それが恐らく握り潰されて来たのは

時代背景も無関係ではないのかな、と。

これらの行為に対して「真摯に反省していれば許しても良いのでは?」という

人も少なからず居ましたが、

昔の日本であればそれでOKだったんだと思います。

色々な事象が世の中において変化しますが、

こうした意識の変化もある、という事でしょう。

例え話で言うなら、昔は立ち小便をして怒られるケースはあっても

逮捕はされなかったと思いますが、

(厳密に言えば逮捕事案かもしれませんが、逃れていたケースが多いという意味)

今はまず逮捕を逃れる事は難しいでしょうからね。

 

少なからず昔からこういう輩が居る、という指摘については

その通りだと思います。

若い時に悪ノリをするのはそんなに不自然だとは思いませんし、

それが当事者以外を巻き込むレベルでないものなら

沢山の大人が経験している事でもあるのかな、と思います。

時代錯誤ですが、昔の会社ではお茶を出す女性社員がいて

その人が嫌いな上司に出す時には汚れた雑巾で絞ったお茶を提供する

なんてエピソードも、今の人たちには驚かれるでしょうが

そうやってストレスを発散するケースもあった訳で。

勿論褒められた話ではありませんが、

清廉潔白な人生を歩み続ける人はそこまで多くないでしょう。

だからこそ、それを『罪』として裁くという形にするのではなく

周囲の人だったりお目付け役の人物がしっかり注意すれば

それで丸く収まる事があったのが昔の話。

臭い物に蓋をするという意味ではなく、

ダメな事をしっかり叱る事が出来る人物が居た。

それによってどんどんエスカレートするところまでは

いかなかった、という事ですね。

 

現在では、そういった"叱る"という行為が

当事者や第三者から見て"叱る"ではなく"単純な怒り"にしか見えないケースがあり

怒りが別の怒りを生み出す負の循環になっている事や

"怒り"に見られるから"叱る"事が出来ない、となって

迷惑行為がヒートアップしていく、という循環なのだと思います。

"叱る"というのは、その瞬間を切り取って言えば"怒り"と同義かもしれませんが

その先に行為の見直しが含まれていますよね。

言うなれば、怒る人と怒られる人の関係性があれば

それは"叱る"という行為になる訳ですが

その関係性がなかったり、それを知らない第三者からは

単なる"怒り"にしか見えない訳です。

 

昔は時代劇で所謂『大岡裁き』で万事解決、なんて話がありましたが

キチンと叱る人、またそれだけの徳のある人

という存在がナンセンスになって来ている世の中なのかな、と思いますね。

迷惑行為を許してあげなよ、という意見の人は

こういうイメージで話をしているんだと思いますが

自分もその気持ちはありながらも、今の世の中には合っていないから

キチンと罪として裁きを受けなさい、という意見の方が多い事や

その方が今の世の中としては正しい方向性なんだろうな、と思います。

もし、時代劇の様な世の中が良い、そうであって欲しいと思うのであれば

キチンと叱る人や、それに対して第三者がアレコレ言わない風潮にならなければ

実現は難しいだろうな、と思いますね。

互いを監視するという訳ではなく、

何が正しくて何がダメなのか、という倫理観を

国民全体が共有出来なければ実現出来ない話だと思います。

 

様々な価値観はあっても良いと思いますが、

それは倫理観あっての話。

昨日載せたガーシーさんの話もそうですが、

ルール無用で好き勝手にやる価値観を認めるのはダメだ

とハッキリ言えなければならないですね。

そうなると、大事な事って個人的には『教育』かな、と思っています。

学校の道徳という授業もそうですし、

親子の関係性を含めた生活環境も教育には大事な要素。

そういうものが整わないと、国民全体で倫理観を共有するのは難しいでしょう。

 

悪い事をしたから裁く、というモグラ叩きの様な事後対応ではなく

そもそも悪い事をさせない、しようと思わせない環境作りをするのが

大人であり政治の役割かな、とは個人的に思いますね。

 

余談ですが、昨日テレビ番組で海外に回転寿司店舗を開店させて

それが盛況だったというのを観ましたが、

それが本場の日本でオワコンになりつつあるのは

何とも皮肉な話だなと思いましたね