究め道

色々感じた事を書くブログです

心の拠り所

先週末は参議院選挙がありましたが、

その選挙期間中に安倍元総理が凶弾に倒れるという

ショッキングな話がありましたね。

故人の功罪については割愛しますが、

世界各国の要人が弔辞を述べているのをニュースで見ると

世界的に見ても反響の大きい出来事だったという事でしょう。

 

犯人として捕まった男性は自分の同世代。

犯行の動機として親の宗教団体への過剰献金による破産が挙げられる様ですが、

その宗教団体と見られる代表が後日会見を開いて対応するなど

この騒動の終着点はまだ見えないと言って良いでしょう。

宗教団体と安倍元総理の接点は現時点では結びつきがある様には見えず

破産が宗教によるものだったとしても、

そこから安倍元総理に恨みの矛先を向けるのには疑問が残るので

憶測と事実を分けて考える必要はあると思いますし

犯人の思考もその2つが混在していると言わざるを得ないでしょう。

 

日本は多くの国民が無宗教です。

他国からすると無宗教者が多い国は珍しい部類かもしれません。

国によっては宗教によって国民が分断される事もあるので

日本人が本当の意味で理解するのはなかなか難しい話なのかもしれませんね。

 

自分の個人的な解釈ではありますが、

宗教はある種心の拠り所の様なものだと思っています。

簡単に言うなら「神様は常に見守ってるよ」ということかと。

人はポジティブな感情を持っている時は深く悩む事はないと思いますが、

ストレスや飢餓、戦争などネガティブな感情が渦巻く時には

誰かに「貴方は間違っていない。大丈夫だよ」と言って貰いたいものですよね。

ただ、そういう声を掛けてくれる人が周りにいない事があっても

"神様"という人物へ「自分は間違っていませんよね?大丈夫ですよね?」と

確認をする行為が信仰心であり、宗教なのかな、と。

宗教の大小はあるでしょうが、基本的な構造はこういうものだと思っています。

 

何かに寄りかかりたい時などに助けてもらえると嬉しくなるでしょうし、

その人や環境に恩返ししたくなる気持ちも理解は出来ます。

しかし、それが高じて多額の献金が発生したり

極端な思考を持たされる様になるのもまた宗教の怖いところ。

自分が学生の時にオウム真理教が世間を悪い意味で席捲しましたが、

カルト教団の成れの果てとして行き着いた姿を見ていると

宗教には関わりたくない、と思ってしまうのは

決して間違った思考ではないかな、と個人的には思います。

勿論この考えを他の人に強要するつもりはありませんが

自分の身近にこの様な人がいたら距離を取るのは間違いないですね。

 

宗教というのは至る所に根を張っています。

自分の様に宗教に対して警戒心を持っている人はかなりいるので、

そういった人たちに「私たちは安全ですよ」というアピールをする人は

かなりいます。

また、その活動も様々。

熱心な信者は勧誘活動を盛んにしたり、献金をしますが

熱心な人ほど相手にも強要する傾向があるので

それについてはかなりげんなりします。

自分の仕事場にもかつていましたが、正直相手にしたくない気持ちでしたしね。

とはいえ、彼らは自身の行為を"善意"で行っているので

あからさまな拒否をする事もまた難しい訳で。

詐欺行為など悪意に満ちているなら拒否しますが、

そうでない話なので否定もしづらいところ。

結局のところ、自分のところにそういうものが降り掛かって来る時には

お茶を濁す事しか出来ないのが現状ですね。

 

ありがたいと思ったのは、自分がある程度成熟した考えを持つまでの間に

そういった極端な思考を持つ人たちに出会わなかった事でしょうか。

今回の事件の犯人は、幼少期に宗教に関する辛い思いがあったのは事実で

宗教の悪い面が浮き彫りになった訳ですよね。

上でも載せましたが、自分は思春期にオウム真理教を傍から見る事が出来たので

結果的に宗教に関する物事からは一定の距離を保ってきました。

もしそうでなかったとしたら、今の自分の思考には辿り着かないでしょう。

だからこそ周りの人には感謝していますし、

これからは逆に見守る立場として生活していきたいですね。

 

誰にでも心細くなる瞬間はあるものです。

その時の心の拠り所が間違っていなければ

誰しもが悪事に手を染める事はないでしょう。

ただ、世の中の仕組みとしてそうなる事はありえないと断言出来るので

自己防衛を間違えないことと、日本人全員なんて大きな事は言えないので

せめて自分の周りの人たちだけでも不幸に会わない様に

これからも自分の身の振り方を考えていきたいですね