究め道

色々感じた事を書くブログです

学校の役割

ネットの記事で「学生時代には女性が化粧をすると否定的に捉えられるが

社会人になると化粧が常識と言われる」という記事に対して

多くの反応が見られた、というのを目にしました。

確かにごもっともな話で、中高生がメイクをすると

ませてるだの学業が疎かになるだの色々言われます。

一方、社会人になってメイクをしない人は殆どいないでしょうが

勤め先を含め、場所によってはノーメイクがマナー違反であるかの様に

咎められるケースも。

一言で言うなら「TPOを意識せよ」という事なのかもしれません。

社会に出てもメイクをしなくても良い場所もありますし、

学生であっても、出向く場所によってはメイクが必要なケースだってあるでしょう。

時と場合による訳なので、「〇〇だからダメ」という

型にはまった答えを求める事自体が間違いなのかもしれませんね。

 

学校ではテストが行われますが、

テストの本質は授業をどれだけ理解しているか?を確認する作業です。

しかし、何をはき違えているのか

人によっては正解を導き出す事に終始する人もいますし

先生側も満点を取らせまいと意地悪な問題を作成するなど

どちらも本質が間違っている事も。

テストをしなければ生徒が真剣に授業を受けない

という意見もあるかもしれませんが、

つまらない話だったら聞きたくないのは授業だろうが講義だろうが一緒ですし

能力や関心に差がある多くの人間が一緒に授業を受けている時点で

同様の授業を行っている事自体が矛盾しているとも言えます。

画一的で平等な学校教育の限界を感じますし、

日本の教育方針は優秀であるが同じ様な人間しか排出しない

という海外の評価も実情を知っていればうなずけます。

これからは多様性を認める方向性に世界が舵を切っているので

学校というシステムが今後足を引っ張る可能性は

ありえないとは言い切れないでしょう。

 

勿論、全てを否定する訳ではありません。

学校には勉学を受ける以外にも様々な役割を持っています。

例えば給食は食育という重要な意味合いがあり

栄養バランスがしっかり保たれた食事が確保されているのは

発育上とても大事ですし、それが少額の負担で受けられるシステムは

海外でもなかなかないものでしょう。

夫婦が共働きしている世帯用に学童保育という

子供を安全に預けられる場所がある、というのも強みだと思います。

日本は犯罪が比較的少ない国ではありますが、

防犯面で安心であれば、家族全員が安心出来ることでしょう。

(但し、その場で働く方々の給与を含む保障体制等については今回は割愛します)

 

自分は40歳を超える子供がいない身なので

その立場から好きな様に発言をさせてもらうとすると、

冒頭で触れたメイク問題を学校で教えて欲しい、というコメントがあるのですが

それに対しては無茶言うなよ、と返したくなります。

学校側の事務処理を含めた多忙さはブラック企業さながらである事は

度々テレビを含むメディアで取り上げられていますし

その手間を更に複雑化させる様な要望はいかがなものかと。

もしそれを実現させたいのであれば学校側の人員配置を増やすなどの

体質改善が先でしょうし、

公立でない学校ならば人件費がかさばるのは経営の観点から言うと死活問題。

そうなると学費を上げざるを得ず、払う側からすると勘弁して欲しいところでしょう。

また、学校はあくまで勉学に勤しむのが基本であり、

それ以外の部分は親を含めた周りの人間がしっかりと支えるのが全うかと。

何でもかんでも学校にやらせようとするのはおかしいですし、

それに対して文句を言うのはもっとダメ。

モンスターペアレントと言われる所業だと思いますね。

 

ただ、共働き世帯からすると生活費を稼ぐ事で精一杯になり

子供にエネルギーを注げる力や時間が充分でないのは事実。

1つ間違えればネグレクトと認定されかねず

苦労されている方がたくさんいるのが現実です。

そんな時は親戚、近所の人、自治体等々がお互いにサポート出来る様に

日々接する事が出来れば良いのでしょうが

自分優先で他人に干渉しない事が当たり前になりつつある現代において

そういうものにすがれない実態もあるのかもしれません。

子供はとても感性が敏感。

大人の振る舞いを見て行動をするので、苦しい実情でも勝手に我慢するでしょうし

今回の様な投げかけがあった時に

「俺も・私も」とふと感じるのかもしれませんね。

 

こう考えると昔の様な夫婦のどちらかが家にいて子供の面倒を見る

という形は意外と全うだったのかもしれませんね。

その時には学校の役割は勉学のみで充分だったのでしょうが

世の中の流れが常に変化する現在では

求められる役割が同じではダメなのかもしれません。

 

自分も仕事をしていて、相手の様子を見ながら柔軟に対応しなければ

事業の継続が難しい事を理解しているつもりです。

いつまでも同じではいけないのであれば、

学校という形も変化が必要なのかもしれませんね。

多様性が認められる様になるには、

本当の意味では人間の思想等の根本的な部分が変わらなければ難しいものです。

その根本部分を形成するのは学校と家庭での過ごし方、

もっと言えば教育そのものです。

そこにお金やマンパワーを含めたものを軽視せずにしっかりと注げる様な

国であって欲しいと切に願います。

 

もうすぐ参議院選挙ですね。

投票権を持っている方は、面倒に思わず一票を投じる様にしましょう。