究め道

色々感じた事を書くブログです

確率から見る多様性

突然ですが、今回は「常識」について考えたいと思います。

一般的に言う常識とは、多数派の事を言うのかな、と個人的には思っています。

広辞苑が久々に改訂されるという話を聞きましたが、

その際に新たに掲載される言葉は、世間的に流通している言葉を載せます。

「リモート」なんて言葉は、コロナ禍になって浸透しましたね。

浸透するということは、多くの人が使う言葉ということですし。

一方で、昔から使われる言葉でも時代によって意味が変化するものもあります。

「破天荒」という言葉は、本当の意味としては

「今まで人が成し得なかったことを初めてすること」というものですが、

一般的に流通している意味では「豪快で大胆な様子」として通っています。

今更ながら修正が難しいこの言葉は、そのうち意味が変化していくのではないかと

個人的に思っていますが、これもある意味多くの人が使っている言葉ですね。

つまり、仮定の話ではありますが、多くの人が利用するものが新しい常識となり、

世の中の変化度合いを表しているのではないか、と思うのです。

 

自分は常識的な人になりたいと常々思っている人間ですが、

それはつまり常に多数派の回答が出来る様になっておきたい、という事です。

それが難しい事であることは勿論承知の上ですが、

その為にアンテナを張っておく必要はあるのかな、と。

 

本題ですが、例えば2択の質問があるとします。

(例:トイレで用を足した後、フタを閉めて水を流す?開けたまま流す?)

この答えが割合として8:2だとした時に、

多数派・常識的な回答としては8の方を選ぶ訳です。

様々な質問・選択があった時に、常に多数派の回答を選ぶ事は

実はとても難しい事なんです。

上記の8:2の答えがあるとして、10個の質問をすると

常に8の回答をする確率は約10.7%となります。

つまり、常に常識的な回答をする人は10人に1人しかいない事に。

となると、常識的でない人(非常識な人?)は9人もいる事になり

常識的な人は少数派になってしまう、という事です。

1つの質問であれば常識的な人の方が多数派になる訳ですが、

常に常識的な回答をし続けるといつの間にか少数派になってしまうという

なんともおかしな結果に。

ある意味、数字のトリックとも言えますね。

 

常識的な事を続ける事の難しさは上記の通りですが、

それならば常識的な回答を続けられる人は極少数なのだから

多少の寛容性だったり、多様性を認める事には繋がらないのかな?とも思うのです。

近年の日本では昔と比べても寛容性がなくなっている様に感じるのですが、

コンプライアンス等は守らなければならない一方、

少しの乱れを許さない風潮については少し窮屈に感じる事もありますね。

そういう意味で言うと、例えばの話ですが、

自分が子供の頃は公園でボール遊びをしても問題なかったものが

今ではボール遊びが禁止されている公園ばっかりで

今の子供たちはやりたい遊びが少なくなってしまっているなぁ、という印象です。

(過去にボール遊びをして怪我をした人がいたからその様な措置を取った

のだと思いますが、極論過ぎるのではないかと)

 

また、こうなった背景として「自由」というものの解釈も変わったのかな、と。

コロナ禍になって海外の人が盛んに言っているのが

「マスクをしないのも自由だ」という言葉。

自由というのは選択肢があるものだと思うのですが、

同時に自由には責任も伴う訳で。

自由に振る舞うのだとしたら、自分や周りを含めて結果には責任を持つのが

当たり前だと思うのですが、

「好きにして良い」というものだけが自由という解釈になっている様な気がしますね。

多様性を認める必要は確かにありますが、

責任が持てないのだとしたら制限されてしまうのも致し方ない事ですし、

結局そういったものが積み重なって不自由になっていくのかな、と。

世の中には色々な考えを持った人がいるのは事実ですが、

この様に考えると責任を持てない人が増えたのか?という風にも考えられますね。

 

アダルトチルドレンなんて言葉もありますが、

考えが幼稚なままではいけないですよね。

自分もそうならない様に気を付けているつもりですが、

色々な人を認める気持ちも持ちながら

常識的な振る舞いを忘れずに生きられれば、と思います