究め道

色々感じた事を書くブログです

僕が思う「天才」


「天才」という定義づけはとても難しいですね。

人によって「天才」という定義・尺度は様々。

その中で、共通している事と言えば、

わかりやすく表現するなら「成功した人」という事になるでしょう。

多くの人間が称賛し、羨むような成功を収めた人を

敬意を込めて「天才」と称するのでしょうが

その当人たちはというと「天才」という表現を嫌っているような気がします。

 

成功を収める前、当然ではありますが

その過程においては苦労をしているはずです。

そして、その苦労が他人から見ると理解されず

時には馬鹿にされる事もあったでしょう。

しかし、それは“従来の方法”と言われる手法をとっていない為に

結果が見えない未開の地を歩いているだけで

多数の人が選ばない道を選んでいるだけの事なのではないか、と。

そして、その分野を開拓した時に初めて称賛され、

それまでの苦労を一言で表そうとすると

「天才」という表現になるのではないでしょうか。

成功した人からしたら、一言で片付けられたくないと思うでしょうし

そんな安っぽい表現をされると不快な気持ちになるのは

分かるような気がします。

 

では、「天才」ってどうやって表したら良いのか?

と考えるかもしれませんが、

僕が思うのは『説明出来ないからこそ天才』だと思うのです。

自分も含めてですが、凡人は過去のデータや方法から答えを導き出します。

それは多くの分野において正解なのは事実です。

しかし、それでは思いも付かない様な答えというものには一生辿り着く事はなく、

ある意味「凡人の発想」なのです。

天才というのは、誰も見たことのない世界をいち早く突き止めるからこそ

「天才」なのであって、形容されるものではないんだと思うんですよね。

後々になって天才が歩んできた形跡・行動・理論・思考を紐解く事で

なるほど、とは思えるのでしょうが

その行動自体が既に凡人なんですよね。

どんなにボキャブラリーがある人、専門分野においての権威の人であっても

その本質の凄さを表現出来ない人を総称して「天才」。

言い換えれば、誰もが「天才」の要素を持って生まれながら

凡人の道を歩んでしまったが故に

大多数の人間は「凡人」になってしまうのだと思います。

天才の経緯は紐解きをせずに、ただ称賛を送ればそれで良いのではないでしょうか。

天才と呼ばれる方々も、あれこれいじくりまわされるよりも

単純に「素敵ですね」と言われる方が喜ぶのではないかと個人的には思います。

 

ちなみに、僕は自分の事を凡人だと思っています。

何事に関しても、この正解には必ず理由がある筈と

常に考えてしまうので。

そして、僕の妻は天才です。

本人も説明出来ず、僕も説明不可能な朗らかさを持っているので。

 

最後に妻の自慢をしてしまいました