究め道

色々感じた事を書くブログです

自由とか人権とか

個人的に思うことかもしれませんが、

最近よく耳にする「人権」とか「自由」という言葉。

多様性を認めていく上でよく使われる様な気がするのですが、

ニュースだったり友人だったり、

人によってその言葉の解釈がかなり違う気がします。

好き勝手に振る舞う事が「自由」だったり

都合が悪くなると「人権」を振りかざしたり。

それってどうなんだろう?と思う事がしばしばありますね。

 

あまり詳しい訳ではありませんが、

人権というものは元々は西欧にある考えだそうで。

人としての権利を認める事がベースになっているのですが

国や文化によってそれぞれその土壌にある根本的な問題だったり

差別などが基になっていて、それが議論のベースになっている訳ですよね。

日本は江戸幕府の崩壊後や第二次世界大戦後に

急速に欧米諸国の感覚を身に付けようとしていますが、

それは世界と足並みを揃える意味では必要な事ですが

同時にそれを受け入れるにはまた違った問題も出て来る訳で。

日本ならではの良い考えだったり文化を失ってまで

モノにするべき事柄なのか?というのも同時に考えていく必要が

あるのではないでしょうか。

 

例えばですが、京都の文化で「わかりづらい言い回し」というのがあります。

ぶぶ漬けいかが?」というのは、長居せずに帰れと、いう意味だとか

子連れの親に「元気な子だね」というのは、静かにさせろ。躾がなっていない、とか。

言葉の意味をストレートに受け取ると本心がとてもわかりづらいんですが、

そこに隠された意図だったり想いを読み取る、というのは

海外の人には出来ない日本人ならではの感性ではないでしょうか。

相手を傷付けない様な言い回しをして気付いてもらうというのは

なかなか簡単な事ではありませんが

それでも個人的には良い文化だと思っています。

自分も相手の気持ちを読み取ったり推し量るのは苦手な方ですが、

近年は輪をかけてそういう事が出来る人が減っている気がします。

相手の言葉をストレートに受けたり、ストレートに言ったり。

まさに欧米の文化ですね。

素直に言ってほしいと思う事もある反面、

そこまで言わなくても良いんじゃない?という事を言われる事もあるでしょう。

そこを見極める難しさを、日本の文化は上手く昇華出来るのではないでしょうか。

何もかもを合わせる必要があるのか?と思うのです。

 

もう1つ例を挙げるとするなら、

メディアがよく使う「報道の自由」について。

相手が知りたがっているのだから報道するのは自由だろう、というニュアンスで

よく使われる言葉だと思いますが

そもそも「自由」というものには、同時に「責任」が伴うものだと

個人的には思っています。

好き勝手にやる事が自由なのではなく、

何かが起きた時に責任を伴うのを理解した上で行動する事が

自由の根本的な意味合いだと思うんですよね。

自分が発信した時に相手がどう受け取るか、

その想像力がないままに発信するのは自由ではないと思うんです。

最近では新型コロナウイルス関連の報道が連日流れていますが、

それを通じて観る側に何を受け取ってもらいたいのか、

また何を訴えているのかを考えているのか?と疑問に感じてしまうほど

メディアの質が問われているのではないでしょうか。

また、最近ではSNSが当たり前の様に利用されていますが

誹謗中傷をする事が果たして自由なのか?と言われれば

そうではない、とわかってもらえると思います。

 

ここから先は個人的な意見になりますが、

自由や人権という言葉を使う人に

「常に相手をリスペクトする意識」があるか?というのが問いたいですね。

上から押し付けず、決して過干渉にならず

常にリスペクトを持ちながら、それでも正しく主張すべき時には

自己の責任を持って発言する。

これが出来れば、自由とか人権などという言葉に踊らされる事なく

不必要にぶつかる事もなくなるのではないでしょうか。

 

勿論それは簡単な事ではありません。

自分も意識はしていますが、それでも上手くいかない事がかなりあります。

でも、その気持ちを忘れなければ

今よりは良い方向へ向かうと思っています。

1人でも多くの人がその様に考えてくれると良いなぁと

個人的には思います